「あかり」の面白さ。感動を与える庭園ライトアップの裏側

あかり。それは、私たちが母親のお腹の中にいるときから、この世を旅立つ時が来るまで、一生私たちに寄り添ってくれるものです。
遥か昔、人間は火を扱うことを覚え、電球を発明し、文明の発達と共に「あかり」を進化させて来ました。
そんなあかりは今となってはLEDで空間を演出するようなエンターテイメントの一つとして、映像との境界がほとんどなくなってしまう程にまで発展しました。
長い年月をかけて芸術へと進化したあかりの面白さを、今回は庭園のライトアップという切り口で紹介していきたいと思います。

庭園など植物のライトアップはもはや芸術です。その人がどんな風に対象を照らしたいかで見え方がまるで変わってきます。
あかりは形のないもので、照明手法や良し悪しは多種多様ですが、まず前提として私が心に刻んでおきたいことがあります。
それは、私たち人間が照明器具を駆使し植物を美しく魅せようとしても、太陽がつくり出す移ろいゆく光の変化や、薄暮れ時の静かで感動的な風景には遠く及ばないということです。

太陽光が植物に降り注ぐ時、その肌は艶めき、心地良い反射光が私たちの目に飛び込んできます。地面に落とされた影は風に揺らめき、時と共にゆっくりとその顔を変えていきます。当たり前のような何気ない光景ですが、それは息を飲むほどに美しく、これ以上ないほどの完璧な芸術作品です。

ですので、太陽光をお手本として照明を考える必要がありますが一筋縄ではいきません。

それにはいくつか理由があります。

一つは太陽の光の「質」です。太陽光はあらゆる波長(つまり光の材料)が揃っていますが、照明器具からでる光は太陽光ほどの波長の幅がないのです。絵の具に例えると、太陽光はたくさんの絵の具が用意されているのに対し、照明器具から発する光は、その絵の具の種類が少し足りない状態なのです。(これを光の「演色性」といいます。)

もう一つの理由は、照明器具は太陽と違い、照らす対象から近い位置に設置しないといけないために工夫をしないと眩しい光(グレア)が見る人の目に入ってしまうということです。可能ならばどの場所に器具を設置しているかが分からない程にまで、照明器具の存在を隠すことが必要になります。照明は黒子、主役はあくまで庭園なのです。

人工の光は太陽光に及ばない。
ではなぜライトアップをするのでしょうか。それはライトアップでしか表現できないことがあるからです。

例えば庭園ライトアップでは、込められているストーリーを語ることも大切な使命です。雨が降り、川ができて海となり、そしてまた雨になって地に降り注ぐ-といったようなストーリーを、違和感がないように作っていきます。そして、庭園にあるものが持つそれぞれの意味を丁寧に表現するために、太陽光からヒントを貰いながら、植物と会話をします。そうしているうちに「ここにしかない」というポイントを庭園が教えてくれるのです。閉園後、今日もライトアップの現場ではそんなことを楽しんでいる人たちがいます。

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