世界で一番美しい絵画とは?

みなさんは、「世界で一番美しい絵画」と聞いて何を思い浮かべますか?現実にはありえないような不思議な形が描かれた絵でしょうか。それともまるで絵の中に現実が存在するかのようにリアルな絵でしょうか。名画にもたくさんの数があり、ひとつに決めるのはそう簡単なことではなさそうです。サッカーのW杯のように4年に一度トーナメントがあって一番を決められたらわかりやすいのですが、なかなか難しそうです。

ひとつの手掛かりとして価格はどうでしょうか。名画をオークションで何百億という金額で落札されたというニュースを聞いたことが一度はあるかもしれません。300億円を超える金額で落札されたこともあるようです。ではその中に世界で一番美しい絵画があるのでしょうか。

  

おそらく世界で最も有名な絵画 レオナルド・ダ・ヴィンチ モナリザ

 

価格の高さが美しさと言えるのか

300億円の絵画が、3億円の絵画の100倍美しいのか、というとそんなことはありません。これは、食事に例えるとわかりやすいのかもしれません。近所で評判の定食屋で人気のメニューが800円で売られていたとして、銀座の高級レストランで8万円のコースがあったとします。8万円のコース料理は、800円の人気の定食の100倍美味しいかというと、絶対にそんなことはないはずです。つまり価格には様々な要因があるということです。絵画の場合においては、価格については需要と供給のバランスで決定され、美しいかどうかは価格の要因としてはあまり関係ないのです。

フィンセント・ファン・ゴッホ ひまわり

多数決で美しさは決まるか

では多数決はどうでしょう。選挙のようにたくさんの人が投票すれば一番美しい絵画は決まるでしょうか。

ゴッホを例にとってみましょう。ゴッホは生きているうちには、正式には絵は一枚しか売れなかったという有名な逸話があります。

※ただしこの逸話は正確ではなく、「何枚かはわからないが少なくとも2枚以上は売れていた可能性が高い」と現在では言われています。また他の芸術家の絵や、画材、食料と「物々交換」していたこともわかっています。(参照元サイト(英語)「オランダ ゴッホ美術館:ゴッホの絵は生前何枚売れた?」より)しかしいずれにしても少ない枚数であることには変わりありません。

つまりゴッホの絵は当時の多くの人たちに必要とされていなかったのです。多数決で美しさが決まるのであればゴッホの絵は美しくないということになります。

ゴッホの自死の直前にアルベール・オーリエという美術評論家がある美術雑誌に評論を掲載したことがきっかけで、ゴッホの絵は広く知られるようになり今日の評価につながっています。売れなかった理由は美しくなかったからではなく「知られていなかった」からなのです。

17世紀に活躍したヨハネス・フェルメールは現在では最も有名な画家の一人ですが、生存した17世紀こそ著名な画家の一人ではありましたが、18世紀に入ってからは、その名前を知る人は多くありませんでした。今では誰もが知る美しい絵画を描いた画家も一時は人々から忘れられていたのです。19世紀のフランスで再評価されると再び注目が集まり、今では多くの人々に時代を超えて感動を与えています。

このように「多くの人から支持がある」ということは必ずしも美しさを測る指標にはなり得ないというのがわかります。

多数決では、有名人が選挙で当選する確率が高くなるのと同じで、本来の力とは別に「広く知られているかどうか」が重要な要素となりえてしまうのです。また多数決では決めることができない別の理由もあるのですが、それは後ほど記します。

ヨハネス・フェルメール 真珠の耳飾りの少女

美しいとは、人それぞれ?

では美しいとは、その人その人が決めることであって、その人が美しいと思えば美しい、美しくないと思えば美しくないというのはどうでしょう。

私はそれが正解だと思います。でもそうするとデザイナーや美術家は必要ないのでしょうか。それは、料理が美味しい美味しくないは人それぞれだから、腕の良い料理人は存在しないというようなものです。ここで美しいとはどういうことかをはっきりしておかないといけないようです。

「美しい」とは何か

美しいと感じるのは感情の動きですが、料理が酸っぱいや甘いなど様々な味の組み合わせで成り立っているように、「感動」した時の気持ちも様々な要因で成り立っています。そして「美しい」とよく混同されやすいのが「綺麗」と「すごい」です。「綺麗」も「すごい」も心に感動を呼びます。ですが「綺麗」と「美しい」はまったく同じではないのです。そして「すごい」と「美しい」も違います。もちろん重なる部分もあると思いますが、同じではありません。

どういうことかと言いますと、「綺麗」でもそこまで美しくない、「すごい」けどそれほど美しいわけではないということもありえるからです。さきほど、多数決で美しさを決めることができないと言いましたが、ひとつの原因として、この混同があります。多くの場合、「綺麗」と「美しい」、「すごい」と「美しい」を区別なく評価してしまうからです。例えば、ものすごく細かい、精密な写真のような絵があったとします。それは「すごい」絵ですが「美しい」かどうかはまた別です。それが例外なく美しいのであれば、写真はすべて美しいということになります。

これは「綺麗」ということにもあてはまります。ゴッホの枯れたひまわりの絵やセザンヌのリンゴの絵は「綺麗」な絵ではありませんが、「美しい」絵です。

 

  

ポール・セザンヌ リンゴとオレンジのある静物

 

「綺麗」と「美しい」の違い

「綺麗」とは味で例えるならば「甘さ」です。「美しい」とは例えるならば「美味しさ」です。

「甘い」と「美味しい」が違うように、「綺麗」と「美しい」は違います。

夜空に輝く星々、きらめく水面、幻想的な月、これらを散りばめた絵画は「甘い」絵画でしょう。しかし砂糖をいれすぎた不味いスイーツのようになることもあるのです。その逆でそれぞれがうまく組み合わさって甘くて美味しいスイーツになることもあり得ます。甘いと美味しいはイコールではありません。つまり綺麗だからといって美しいとは限らないのです。そして美味しい料理(美しい)は必ずしも甘い(綺麗な)必要はないのです。わかりやすく言えば「美しい」には、「面白い」「興味深い」といった意味も含むといえばしっくりくるかもしれません。

世界で一番美しい絵画とは?

ではいったい世界で一番美しい絵画とはなんでしょうか。「美しい」という感情が人それぞれである以上、その人にとって美しい絵というのはそれぞれだとは思います。しかしそれが、「広く知られている」かどうか、「綺麗」かどうか、「すごい」かどうかは関係なく、あなたにとって一番「美しい」と思える絵画、それが世界で一番美しい絵画となるのではないでしょうか。

美しさに出会うために

最後に世界で一番美しい絵画に出会うためにどうすれば良いのかということを提案したいと思います。

もしかしたら今まで観た作品の中に世界で一番美しい絵画があるのかもしれませんし、今まで知らなかった作品の中に実はあるかもしれません。何よりもまずたくさんの作品を観ることがチャンスを広げることにもなります。

幸い、日本では様々な名画が展覧会で世界中からやってきます。(あの有名なモナリザでさえ日本に来たことがあります。もっとも何十年も前の話ですが。)名画に出会えるチャンスはいくらでもあります。また過去の名作だけでなく、現代の作家が描く現代の美しさに触れることもできます。

そのほかにも画集やインターネットなど、そのものではないにしても印刷や画像で気軽に出会うこともできます。

ですが、いくらそんなチャンスがあったとしても、それよりも大事なことがあります。それは観る人の「心」です。名画や美術作品と向き合うことは自分の心と向き合うことでもあります。世界中の美術館を旅して巡っても、「心」がなければ美しさを感じることはできないでしょう。「周りが良いと言ってるから良いんだろうな」とか、綺麗ではない、すごくないからといって心を閉ざしてしまっては本当に美しいと思う気持ちにたどり着くことができません。まずは先入観を捨てて興味を持つことです。

世の中にはたくさんの驚くべき作品があります。まるでテレビアニメの一場面のような作品、落書きのように見える作品、強烈な悪夢のような作品、写真よりも繊細にリアルに迫ってくる作品、たくさんの美術作品から刺激を受けることで、本当の美しさに出会うことができるはずです。

世界で一番美しい絵画。それはつまり、作品を通してあなたの心の中に「世界一の美しさ」を発見することなのです。

(2017年8月9日 加筆修正)


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